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備忘・感想

芸術の境界――赤瀬川原平とマルセルデュシャン

 昔アメブロにも同じようなものを上げた気がするが、せっかくなのでここにも載せておく。芸術作品の話だ。

 

 横180cm、縦90cmの紙の左右端を、曲線による緻密な模様が埋め尽くす。四隅と中心には白抜きで「1000」の文字があり、左上と中心の「1000」、右下と中心の「1000」を結ぶ線上には、それぞれ黒く細い字で「RA565658R」と描かれている。紙の右半分には中心の方を向いた聖徳太子の胸像、そして中心の「1000」の上には、日本銀行券、千円、日本銀行の文字があり、赤い印が押してある。要するに、200倍まで拡大された、旧千円札の模写だ。

 作品の名称は「復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)」、作者は赤瀬川原平。赤瀬川による紙幣の模造作品はいわゆる千円札裁判で有名となったが、これは有罪の根拠となった印刷作品ではなく、紙パネルにグアッシュで手描きされた一点物の絵画である。180cm×90cmの絵画作品というと美術館映えしそうなものだけれど、「反芸術」を唱える彼の作品は基本的に美術館の展示と相性が悪い。それは異化という行為のお行儀の悪さの表れだけれど、異化をテーマとしながらも美術館に置かれるべき作品というのも当然あって、例えばマルセル・デュシャンの「L.H.O.O.Q.」のような作品はその代表だろうと思う。これはお土産に売っていそうなポストカードのモナリザに、黒い鉛筆でカールした細い髭と顎髭を書き加えた作品だ。絵の下には手書きでL.H.O.O.Q.と書き留められいて、フランス語で発音すると、「彼女はお尻が熱い(欲求不満である)」という意味にとれるらしい。

 デュシャンは有名な芸術作品のコピーに落書きめいた書き込みをした「作品」を提示することで、高尚なファイン・アートを解体しようとしているし、赤瀬川は紙幣がただの印刷された紙でしかないことを観る者に突きつけている。広く共有されたモチーフを流用して観る者の固定観念を揺るがすことが作品にとって重要であること、異化という目的を同じくする作品であるという意味では、この両作品は同じ分類にくくることができそうに見える。しかしながら、次の一点によって、この作品たちはあくまで区別されなければならないように思う。すなわち、デュシャンの作品は芸術作品を名乗る必要があり、赤瀬川の作品は、その逆である。言い換えれば、デュシャンの作品は美術館に展示されたなければならない。赤瀬川の作品は、本来美術館に展示されてはならない。

 赤瀬川は紙幣を模造した一連の作品に関して、ある対談でこのように発言している(1)。「その千円札を使って、会場の壁に留めたり、なにかを梱包したりしてみたけど、ぜんぶ、なんか『蛇足』なんですよ。」「『千円札のコピー』を『つくった』ということ、そこでもう終わっちゃってたんですよね、その芸術は。」つまり赤瀬川にとって、芸術性とは、作品の展示ではなく制作の中に存在したわけである。無根拠であるからこそ神聖不可侵な交換価値の基準が、実はただの印刷物でしかないことを臆面もなく指摘し、模造してしまう。その行為の挑発性にこそ赤瀬川は作品の意義を認めたのであろう。行為の後に残った物体をこねくり回すことには特別の価値を見出せないのは自然のことと思われる。そしてここで解体された、少なくともしようとした「価値の無根拠な中心」とは、「芸術」という言葉の相似形でもあるのではなかろうか。観る者の思考を停止させ、感動のひな形を与えてしまう代わりに、作品の普遍的価値を保証するのはこの言葉である。社会制度への反抗たる紙幣の模造は、赤瀬川の「反芸術」という主張そのものだ。この作品の制作は社会に対しても芸術に対しても、まさに挑発的だった。赤瀬川は結局「殺す前に前に相手をよく見」てみた後制作した紙幣の印刷作品によって起訴され有罪となるが、その理由が偽札製造ではなく通貨及証券模造取締法違反であったことは、「反芸術」という言葉に照らしても痛快だ。そのモノの社会的信頼を損なう、というわけである(*)。この判決は彼が「殺し得た」ことの証言に他ならない。

 デュシャンが観る者の芸術に対する観念を刷新しようとする上では、提示された作品そのものに芸術という言葉が与えられることが、すなわち作品が「芸術作品」を名乗ることこそが重要であった。彼はこの言葉の力を前提とすることで、芸術への固定観念を揺るがすとともに「レディ・メイド」の大量生産品を日常のコンテクストから切り離し、「非芸術」であったものを「芸術」の領域に押し上げた。一方で、赤瀬川の「復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)」をデュシャンのそれと同じように「芸術作品」と呼んでみたとしても、そしてそれを恭しく展示してみせたとしても、それだけでは作品の面白みから遠ざかるばかりである。紙幣を主題にした一連の作品の芸術性は、飾られた作品そのものにあるのではなく、紙幣の模造という行為自体にあり、「復習の形態学」に限って言えば、模造の前に「相手をよく見」てみたことにある。この作品を「芸術作品」として語ることはむしろその反乱を、すなわち赤瀬川が芸術性を見出した作品制作の過程を覆い隠してしまうことになるだろう。だからこそ赤瀬川は「反芸術」を唱え、芸術という言葉に追いつかれまいとしていたのではなかったか。反芸術は決して非芸術ではないが、作品として飾られることの価値からは切り離されているのである。

 

 「美術館に飾られれば芸術だ」という意見をしばしば聞く。いかにも今風な考え方で、それは決して間違ってはいないと思う。ただ、「美術館に飾られれば芸術となる」ことを踏み台に始まる挑発もある。それはあまりにも内輪ネタであり袋小路であり、「芸術」なる言葉の無力を招いた一因でもあるだろうが、どこかで聞いたような、斜に構えた文句で頭を止めることなく、その熟して腐り落ちる寸前のジャンルの面白みを楽しみたいものである。

 

 

 

参考

1.https://www.1101.com/okane/akasegawa/2010-05-31.html 「貧乏と芸術の間の千円札。」2016年7月20日参照

2.http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2001Hazama/02/2200.html 「模型千円札事件――芸術は裁かれうるのか」2016年7月20日参照

 

3.木村重信高階秀爾樺山紘一監修 1993『名画への旅24 20世紀Ⅲ 「絵画」を超えた絵画』 講談社