大量死の時代と英雄の空虚――山田風太郎に関して

以下、大学で出した小レポートを少し感想文に寄せたもの。笠井潔さんの本は本当に便利なので、現代文学について何か書かんといかん大学生は是非読もう。

 山田風太郎は1922年、兵庫に生まれた。彼の職業作家としての出発点は戦後にあるが、青年期を戦時に過ごした戦中世代であることは間違いなく、そのことは彼の作品にも大きな影響を与えている。しかし彼の戦争体験は必ずしも彼の作品を暗く沈鬱なものにしたわけではなかった。むしろ彼は現在まで続く娯楽作品の一類型を作り、広く人々に支持されたのである。彼の作品はまず第一に面白く、彼の小説について語る上で私はその点を最も重視したいのだが、ここではその面白さを下で支えた人間観、時代のリアリティを話題の中心としたい。

 


 山田風太郎の作品には現在でも読み継がれているものも多い。『甲賀忍法帖』や『魔界転生』などはその典型で、数々の娯楽作品でオマージュされているのみならず、2018年にはアニメシリーズの新作も放送されている。彼の作品なくして少年漫画等の「能力バトルもの」は存在し得ず、その意味では大衆娯楽作品の古典と捉えることもできるだろう。彼の作品が広範な読者を楽しませたのは、その文体や技巧、あるいは哲学よりもまず、このような新しい物語の面白みであったはずである。堅苦しい文芸の世界から離れて一般の読者が面白く読めるものを追求してゆく姿勢は、たとえば『甲賀忍法帖』における漢字の多用を避けた表記、また時代小説にも関わらずメートル法を利用する点などに見いだすことができよう。
 しかし、新しい娯楽小説の形態を生み出したというだけで人々の支持を広く得られた理由を十分に説明したことにはなるまい。時代に通底する人間観、リアリティを反映していなければ、読者がその面白みを受け取る以前に理解の断絶が生じてしまうであろう。この、山田風太郎小説が内包する時代の価値観とは何であったのか。それは並外れて優れた人間であっても儚いこと、天才の無力だったのではないかと私は考えている。
 笠井潔は、第一次世界大戦における大量死、すなわち近代的主体が特権性を失ったことを探偵小説成立の要件とした。「かけがえのないわたしとあなた」を語る困難が探偵小説の機械的な因果関係と役割分担を支えているというのである。そう考えると山田風太郎の職業作家としてのキャリアが探偵小説から始まったのは示唆的だ。彼の場合その出発点は太平洋戦争にあったと考えるべきであろうし、その小説において、老いも若きも醜男も美女も関係なくふと消えるように死んでゆくのは、総力戦の時代をいち青年として生きた経験に由来すると予想しても的外れではあるまい。
「大量死の時代」という価値観を内面化した上で、彼はさらに、英雄や天才の生の問題にも踏み込む。神とはまさに交換不可能な何者かの代表であり、英雄とはその似姿である。神亡き後の人々は英雄と天才と近代的知性に神がかつて有していた機能だけでも見出そうとするのだが、山田風太郎の小説はその希望を一蹴する。英雄の空虚こそが、彼の小説を物語の面で特徴付けるのである。若き日の彼は『戦中派虫けら日記』で、アッツ島で玉砕した兵士たちを神兵と呼んだ。このことは、彼が同日記において「一たびダーウィンの進化論によって神を失い、本質的にいわゆる近代文明に毒されてしまった人類」はもはや救われ得ないと嘆きつつ、一方で現人神としての天皇を否定したことを考えれば重大な事実である。彼は兵士の英雄的行為に神の名を与えたが、結局神兵は歴史に抗し得なかった。『忍法帖』シリーズは歴史を参照するが、いかなる超人的忍法合戦や剣術試合が行われようと歴史のイフにはたどり着かない。英雄が神の似姿たり得なかったことを彼の小説は反復し続けるのである。この感覚こそが山田風太郎に『人間臨終図鑑』を書かせたのだろうし、彼と彼の読者が共有していた、戦後のリアリティだったのではないかと私は思っている。


参考文献
 笠井潔 2002 『探偵小説論序説』 光文社
 山田風太郎 1998 『戦中派虫けら日記――滅失への青春』 筑摩書房

 

甲賀忍法帖 山田風太郎忍法帖(1) (講談社文庫)

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人間臨終図巻1<新装版> (徳間文庫)

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