批評と相対化の先――舞城王太郎『煙か土か食い物』感想

 『煙か土か食い物』は2001年に第19回メフィスト賞を受賞し、講談社より刊行された舞城王太郎のデビュー作である。メフィスト賞は持ち込み原稿の仕組みを賞の制度として整えたもので、この受賞作および受賞者は「メフィスト系」と呼ばれて新本格ミステリ後の新しいミステリを、ひいては新しい文学を模索する運動の中で存在感を放った。一般的に、同一の文学賞を受賞した作品たち作家たちが必ずしも要素や構造における共通性を持つわけではない。ただ、綾辻行人をはじめ新本格ミステリの作家を数多く世に出した講談社がアンチミステリを売り出したことには明確な意図があったと考えるべきであり、文学を語る際にその商品としての側面を無視することはできない以上、メフィスト賞を受賞した作品や作家をメフィスト系として一つに括り、その文脈の中で論じるのは合理的といえるだろう。『煙か土か食い物』もまた、他の受賞作との対比のなかで検討するべき作品だ。

 


 『煙か土か食い物』との比較対象としては第2回メフィスト賞を受賞した清涼院流水の『コズミック』が好適である。『コズミック』は既存のミステリをパロディ化し、ミステリのいわゆるデータベース消費的な形態や、その物語空間における作家の特権性を前景化したことが特徴であった。すなわち新本格ミステリに継承されてきた要素、前提として受け入れるべき舞台設定などを極端に肥大化させ強調したのである。『コズミック』は毀誉褒貶が相次ぎながらも大いに売れ、カルト的な熱い支持を呼ぶこととなった(*1)。それはミステリの外殻をまとった告発であり、東浩紀は『ゲーム的リアリズムの誕生』において「近代的あるいは自然主義的なミステリの論理とポストモダンなキャラクターの論理が衝突した場所に生まれた、ゲーム的リアリズムの別の展開」とこの小説を表現している(*2)。既存の作品にたいしてメタ的な視点を持つことを批評の一手法とするならば、この作品は小説の形式をとった批評として読むことも可能であろう。
 舞城王太郎に話を戻そう。『煙か土か食い物』もまた、ミステリというジャンルに対するカウンターを随所に持つ小説だ。作品中の謎は地図や密室、暗号や規則性のある連続殺人など古典的ミステリの道具で組み立てられているが、それは論理によって解決されることがなく、答えは直感によってもたらされ、その正しさは結果によって確認されるか、あるいはしばしばその場で確信される。この小説において謎が解決される様子は『コズミック』の「探偵神」九十九十九の謎解きに近いものがある。九十九十九も、そしてこの小説の主人公奈津川四郎も、作者の用意した証拠から必然的に答えを導き出してしまう探偵たちのパロディなのだ。

 既存のミステリに対するこのような茶々入れは二つの作品に共通する仕草である。ただし、単なる「アンチ」に終始しないのが『煙か土か食い物』の特徴で、この作品はアンチミステリを物語の起承転結の中でも実践する。つまり、物語の筋書きそのものがアンチミステリの運動と相似形なのである。
 物語はサンディエゴで外科医として働く奈津川四郎が、母親が重体とのしらせを受けて帰国し、実家のある福井へ赴く場面から始まる。彼はかなり破天荒な性格ではあるものの、容姿や頭脳、そのほか様々な能力が突出して優れた万能の超人とでも呼ぶべき人物である。四郎は「チャッチャチャッチャと」人を治す凄腕の外科医であり、手術をしていると「自分が神になったような気がしてくる」という。この設定と表現は理性や技術といった近代的な神の似姿としての探偵を表しているようにも、『コズミック』における「探偵神」のオマージュであることを宣言しているようにも見える。いずれにせよ、この作品の主人公は探偵役であると同時に問題解決装置としての探偵を擬人化した存在でもあるのだ。しかし探偵役の人物をいち個人として扱おうとしたとき、問題解決装置と生身の人間との間にある距離は顕在化せずにいられない。福井に帰った彼は「俺の連続性はまたしてもどこかで途切れてしまったみたいだ。アメリカ・サンディエゴから福井県西暁町に至る道程のどこかで」と独白するが、神として働き続ける彼と、来歴や内面を持った彼との断絶がここに表現されていると考えても間違いあるまい。
 そもそも探偵は内面的な連続性を抜き取られた存在であった。笠井潔は『探偵小説論序説』において、謎と論理的解明を骨子とした探偵小説の構造を維持するためには変化してゆく主体などあってはならないから「探偵は犯人と同じく近代的な内面性を抜き取られたキャラクター」として描かれてきたと述べている(*3)。舞城王太郎はこのキャラクター性に手を加えるのである。主人公は謎を解いてゆく一方で西暁での少年時代を回想し、父との確執や兄弟のことでしばしば心を乱される。自分の血族や少年期に関する葛藤はしかし結末において乗り越えられ、彼は「神には程遠かった」が「等身大」の自分として、犯人に傷つけられた父の手当をする。『煙か土か食い物』はアメリカの空港で「ミドルオブノーウェア。どこでもない場所。大体俺のいる場所だってどこなんだ?(中略)どこか俺のいるべき場所であるわけじゃない(中略)俺はここにたまたまいるだけでここにいるべくしているんじゃない。俺の心はこんなところでは休まらない」と嘆いた彼が、「どこやここ。ミドルオブサムウェア。」と言い、「旗木田阿帝奈の胸の上に頭を載せて、もうそれこそ赤ん坊のようにぐうぐうと深い眠りを眠る」ようになるまでの物語であり、つまり探偵役に近代的な主体にふさわしい背景を与える物語なのである。
 探偵役が連続性を回復するアンチミステリの過程と平行して、メタフィクションの構造も導入される。一人称が奈津川四郎という人物から乖離し始めるのである。この作品の最終行「俺は旗木田阿帝奈の胸の上やら脇やらで赤ん坊のように深々と眠り続けて十五時間経ったのにまだ起きない。よっぽど疲れていたんだね。」という一文は、語る私と語られる私の距離が極端に引き延ばされており、明確な目的を持って書かれたものと考えるべきであろう。単に、探偵役が解体された帰結として、一人称の特権的地位が「等身大の」奈津川四郎より剥奪されたと読むこともできるが、自分を俯瞰するかのようなこの視点は、犯人の動機でもある臨死体験の描写と重なることに注意しなければならない。臨死体験に関して主人公が「その体験が本当だとしてもその内容が「この世の真実」であったりはしない」「単なる手製の幻想」と述べていることを考慮すると、虚構性に関する問題提起が結末において作品の一人称にまで拡張されたと考えることもできる。正直に言ってこの人称の操作が作品内で有効に機能しているとは、私には思いがたい。しかし、フィクションたる小説についての自己言及が試みられたことは事実であろう。
 東浩紀は『コズミック』の舞城王太郎による二次創作小説『九十九十九』について、「清涼院が無意識に展開した(中略)構造的主題を物語的主題に変えて作られた小説である」と述べている(*4)が、それは『煙か土か食い物』にも当てはまるのではないだろうか。批評を物語の駆動力として機能させ、「探偵の解体」を物語そのものに変奏し、人称の操作を見せつけてメタフィクションとするこの作品は、批評の実践として抜群に面白い。問題があるとすれば、他の小説や批評的言説との相対的な位置関係のもとでしか作品を読みとくことができないように見えることであろう。アンチミステリもメタフィクションも先行する何かがなければ意味をなさず、そのような自己言及をテーマとした小説の不安定は自明のことのように私には思われる。佐々木敦メタフィクションについて次のように述べている。「原理上、階層は(中略)どこまでも複雑化可能だし(中略)それを読むことも、もちろん可能である。しかし(中略)チャイニーズ・ボックスをこしらえた何者かへの意識は、単一の「作者」への信頼や信奉へと収斂していくことになる(*5)」。カウンターとメタを作品の主題とした結果読者が読みの定点を作者に置いてしまうことは十分にあり得ることで、それ自体は良いとも悪いとも言えないが、少なくとも小説の元となった批評の精神とは矛盾するはずだ。舞城王太郎が『煙か土か食い物』と舞台設定や登場人物を共有する作品を書いたことは、それに対する抵抗として、強度のある完結した世界を構築しようとしたことのあらわれとして考えることもできるのではないか。いわゆる大きな物語が崩壊し、文学の価値がもはや自明でない時代にあって、かつて存在した「文学」を小説によって再現しようとすることの困難を舞城王太郎は示している。しかしそれはまさに、メタと相対化を、「脱構築」と「解体」なる遊戯を野放しにした文学と批評の結末でもある。
 近年、彼あるいは彼女は漫画やアニメの領域にも手を伸ばして表現している。語ること、虚構を築き上げることの意味を自ら探り続けている作家が小説以外の分野に進出することはおそらく必然であっただろう。大文字の文学が解体されて明らかになったのは、文学作品なるものが、情報伝達における技術的制約の結果として生じたいち媒体でしかなかったということであるように思う。権威をはぎ取られた個々の作品たちは実に脆弱な商品として市場にさらされた。「文学」の再現は、小説のみならずあらゆる媒体にまたがって虚構そのものを再構築することからしかなされえないのかもしれない。

 

参照

舞城王太郎 2004 『煙か土か食い物 Smoke, Soil or Sacrifices』 講談社文庫


参考

(*1)佐々木敦 2016 『ニッポンの文学』 講談社現代新書 p.262
(*2)東浩紀 2007 『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』 講談社現代新書 第二章14項「メタミステリ」の「ゲーム的リアリズムについての小説」3段落
(*3)笠井潔 2002 『探偵小説論序説』光文社 p.93
(*4)東浩紀 2007 『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』 講談社現代新書 第二章14項「メタミステリ」の「ゲーム的リアリズムについての小説」4段落
(*5)佐々木敦 2014 『あなたは今、この文章を読んでいる。――パラフィクションの誕生』 慶應義塾大学出版会株式会社 p.176

 

 

煙か土か食い物 (講談社文庫)

煙か土か食い物 (講談社文庫)