知らずにいること、盲目であること

 「成るべく苦痛の少い手軽な方法で盲目になろうと思い試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧い工合にずぶと二分程這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分った」。
 谷崎潤一郎による『春琴抄』の一節だ。『春琴抄』は、美しいが驕慢な盲目の三味線師春琴とその奉公人佐助の生涯を描いた物語で、特に佐助が春琴の家に仕え始めたころから、彼が自ら目を突き盲目となるまでの十年程度がその中心となる。ただしこの物語は『鵙屋春琴伝』なる書物を読んだ「私」による一人称小説である点が特徴的で、物語は「私」の語りと偽書の記述の間を幾度も往復しつつ、その核心を迂回し続ける。カギ括弧や句読点を用いずに様々な形の語りを経由し、最後には冒頭の有無をも言わせぬ明晰な描写に至る文章はまさに神業と言って良いのではないかと思う。盲目というテーマ、あるいは迂回する文体はドゥルーズの言うマゾヒズムの形態学的な特徴とも一致し、また迂回を経たクライマックスの明晰性は探偵小説(谷崎の場合は『犯罪小説集』だが)にも通ずるので、作家論を語る上でも重要な作品と言えるだろう。
 作家論と言えば、渡部直巳氏がこの小説について面白いことを書いていた。春琴たちが暮らしていた時代を計算し、場所と併せて考えると、彼らは大塩平八郎の乱のただ中にいたはずだというのである。大塩の乱は幕府を揺るがす反乱だっただけでなく大坂の問屋が大きな被害を受けた事件なのだが、春琴抄はその渦中に舞台を設定しながら事件について何も触れず美や悪やマゾヒズムやらを語り続ける訳で、ここから考えるに「自ら目を突く」とは、谷崎の芸術至上宣言、社会にたいする盲目の宣言なのではないか、と渡部氏は主張する。春琴抄が発表された1933年は日本が国際連盟を脱退した年でもあり、その時代性を考えても渡部氏の考えには説得力があると僕は考えている。
 それにしても「社会にたいする盲目宣言」とは、谷崎潤一郎谷崎潤一郎であればこそ肯定的に受け入れられるというか、彼が大作家でなければ叩かれそうな宣言である。近代文学は近代社会の形成と密接な関係があり、また多くの文芸批評が文章作品を努めて社会的意義と接続しようとしてきたこともあって、特に純文学と呼ばれる文章作品群が社会に我関せずを決め込むのは、昨今批判されがちだ。温又柔氏の小説に対する宮本輝氏の評が炎上したように、文学にはイデオロギーの問題や社会におけるアイデンティティの問題がどうしても付きまとうようである。僕自身はそのことに関して良いとも悪いとも思わないが、直接的に実存の悩みを告白することにどれだけの説得力が、浸透力があるのかは疑問に思っている。
 ともあれ、社会に対して盲目でいることは近代の到来以来、もしかしたらそれ以前から良しとはされていないのかもしれない。知ることと欲することとは資本主義の教義だから。しかし昨今のように複雑化した世の中と情報の洪水に直面すると、自分にとって知らなくてもよいことを通り過ぎること、見ないものを決めることが、幸せになるためには大切なのかもしれない。そのためには色々なことを知らなくてはならないではないか、と言われたら何も言い返せないけれど。