『道徳を基礎づける 孟子vsカント、ルソー、ニーチェ』 感想

 フランソワ・ジュリアン著  中島 隆博・志野 好伸訳 講談社学術文庫

 

 少しずつ読み進めているので、キリの良いところで順次まとめと感想を書いていきたい。

 

Ⅰ 憐れみをめぐる問題

第一章

 作者の論は、まず東洋から、いわゆる「惻隠の心」の話題に始まる。まず彼が引用するのは『孟子』梁恵王の巻に登場する逸話だ。斉の宣王が、自分は王にふさわしいかを孟子に問うたところ、孟子はこのように答えたという。あなたは供犠の牛に同情し、それを羊に替えよと指示したことがあるでしょう。王の素質をお持ちである証です――。一見すると、王の指示は道徳と縁遠いように思える。目の前の個別の事例に心を動かされているだけで一貫性を欠いているからだ。牛が無辜であると言うのならば、羊もまた無辜の獣ではないか。道徳は道徳それ自身として価値を持ち、また普遍的でなければならず、故に個別の経験から分離されるべきである。そう考えるのが、道徳に対する現代の一般的な姿勢だろう。しかし孟子はそうではない。目の前の怯えに憐れみを持てない者が民草を慈しめるはずもない。動物であろうと人であろうと、他者に直面してしまえば無感覚ではいられないのが人間であり、他者の身に起きたことながら忍ぶことのできない感情を、忍びうることにまで及ぼすことこそが仁である、と、こう考えるのだという。また孟子は「恥じてできない」という感情を「恥ずべきことながらできてしまう」ことにまで拡大するのが義であるとも言っているらしい。

 僕は東洋哲学を専攻していた訳でもないので著者の解釈の妥当性についてはなんとも判断し難いのだが、同じようなことを大学で耳にしたことはある。孟子に限らず、儒教の道徳はある点を中心に拡大するものであり、儒教的愛は家族愛をモデルケースとして、あたかも水面に波紋が広がるように社会全体へ押し広げていくものだそうである。

 第一章は概ね中国思想(孟子思想?)における道徳の概説に費やされているが、本書の重要なテーマ、すなわち道徳の基礎をどこに置くのか、という論点は明らかに設定されている。西欧哲学と対比しながら「道徳を基礎づける」という本題に入っていくのは第二章からになりそうだ。この本の前提となる部分であろうから、丁寧にまとめていきたい。

 

第二章

 古典主義時代を通じて道徳は宗教に従属するものとして考えられていた。これは「西洋古代からの哲学的伝統を引き継ぐ(p.38)」ものらしい。プラトニズムにおいて根本原理たる善のイデアが徳目を規定したように、西洋では専ら形而上学が道徳の正当性を担保してきた。キリスト教の伝統もこの延長にある。道徳は神の命令であり、神によって直接権威づけられていたので、その基盤はあくまで道徳と別の場所にあり、そもそも基礎づける必要がない。「道徳は説明を免除されてきた(p.39)」のだ。

 この巨大な物語に対して、懐疑論は当然に喚起された。古くはエピクロスに始まるらしい。岩波から出ているシュヴェーグラーの『西洋哲学史』(谷川徹三・松村一人訳)によればエピクロスは「徳がわれわれにとって価値をもつのは、それ自身においてではなく、それがわれわれに快適な生活を与える限りにおいてのみである」と考えたらしいので、そのあたりだろうか。道具としての徳、自らに内在する平穏と善なるものとのつながりは、確かに形而上学が道徳を直に規定する考えと相反するようにも見える。結局よくは分からないので、ひとまず先を読み進めることにする。

 モンテーニュは『エセー』において、慣習の力を語り、道徳の基礎の脆弱性を示した。マキャベリは道具としての道徳を説き、形而上学や宗教を根拠とする道徳の尊厳を捨て去って見せた。ゆえに啓蒙時代の思想家たちは、道徳をそれ自身から基礎づけようと腐心してきたのだという。伝統的基盤の喪失は道徳を背徳主義に転じせしめる。だからこそ道徳を道徳固有の基盤に据え付けなければならないというわけだ。カントによれば、道徳はその外に原則を持てば純粋さを失い、道徳的でなくなる。しかし経験に還元されるものでもない。道徳は理性のアプリオリな性格を帯び、故に立法機能を持ち、普遍的であるとともに必然的である。なんだか従来の神が理性に置き換わっただけのようにもみえるが、いずれにせよここにおいて道徳は従来の関係を転倒させることとなった。「形而上学的信念や、さらには宗教的信仰の基盤となり(p.42)」それらを逆に基礎づけるようになったのである。

(ひとこと)

 p.38に「道徳は神の啓示の不可欠な部分であるため、特別な根拠を必要としない」とある。さらっと書き流してあるし、感覚的にはなんとなくわかるような気もするのだが、「啓示」の文脈を知らないのでうまく意味合いを飲み込めなかった箇所である。西洋哲学や宗教を学んだことがある人ならば分かるのだろうか。だいたい、神の啓示って日本人の多くには馴染みの薄い概念ではなかろうか。

 

 

 

 これに疑問を差し挟んだのがニーチェである、とこの本は続く。系譜と類型の検討を経て(ここがよく分からない。善悪の彼岸ツァラトゥストラも読んだことがない)、ニーチェは、道徳とは本質的にルサンチマンと復讐の本能に基づく欲求を満足させるものに他ならない、と明言するようになる。のだが、今日はここまでにして、二章の続きは今週中に加筆したい。

「時はいつの日にも」

 

 今年の三月に大学を卒業し先月から会社勤めをしているのだが、大学生の時と違って朝が早いので、制服姿の高校生たちとすれ違うことも多くなった。彼ら彼女らを見るとその言動の端々から高校生だった当時が思い出される。体に充ち満ちた生気と、未だ何者でもなく何者にもなり得るだろうという明るい不安、今思えばあの時間の豊かさを支えているのはそういうものだった。たった四年前のことがそんな風に懐かしく思い起こされ、同時に仄かな嫉妬と羨望を覚えることもしばしばである。生気と前途とは未だ僕にも備わっていると信じているけれど、高校生のそれとサラリーマンのそれとでは質が異なるだろうし、だいたいサラリーマンと言うだけで、なんだかくたびれた感じが漂うではないか。

 しかし冷静に思い返してみると、僕自身の青春、というか高校生時代に楽しい思い出は少ない。女子には相手にされなかった。次から次へと吹き出てくる酷いニキビと血と膿に怯えていた。体育の授業があれば前日から憂鬱だった。勉強のできる人たちが多い高校で、成績でプライドを守ることも出来なかった。人の目を見て話せなかった。実際、客観的に見て「春」と呼ぶほどの高校生活ではなかっただろうし、自分でもまさかあの日々を懐かしく思い出す日が来るとは思っていなかった。別に諸々の問題が解決されたわけではない。時が経ったということなのだと思う。二十二の男にとって、四年は決して短くない。ありふれた青春がありふれた形で終わったのだろうと、今はなんとなく納得しかけている。何かとうまくいかなかったけれど、それでもあの時の自分は高校生で、汗をかきながら思春期をやっていたのだと思い至ったのは、本当にごく最近のことだ。

 荒井由実の『12月の雨』という作品に、こんな歌詞がある。「時はいつの日にも 親切な友達 過ぎてゆくきのうを 物語にかえる」。僕がここに思い出話の記事なんぞを書いているのも、歯を食いしばりながら過ごしていた高校時代からすれば考えられないことで、まさに物語れるようになった自分を、この頃は愛しいようにも、滑稽なようにも思って眺めている。記憶の輪郭が淡くゆるみ、角の取れた感情が、夕暮れに残った熱気や水道水に冷やされた手のひら、あるいは通学路でふと気付いた金木犀の匂い、そういった一瞬の印象の中へ溶けてゆく。時が経つのは悲しいけれど、確かに親切だ。

 当時の僕は、懐かしい匂いや手触りや、道行く高校生たちの歓声から、ふと思い起こされる物語の断片になりかけているようだ。そしてそれとちょうど同じように、今の、そしてこれからの僕が、いつか季節の記憶の中でばらばらになって、肯定されるようになって欲しいと思う。悩んだり力んだりしている自分を、ああ、そんなこともあったと笑っているいつかを想像しながら、最近社会人なるものをやっている。

芸術の境界――赤瀬川原平とマルセルデュシャン

 昔アメブロにも同じようなものを上げた気がするが、せっかくなのでここにも載せておく。芸術作品の話だ。

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昨日を懐かしむように、一瞬を慈しむように――三上小又『ゆゆ式』感想

 三上小又作、2009年より芳文社にて刊行。掲載誌はまんがタイムきららなど。
 いかに時間の流れを堰き止めるかが重要な作品は多い。いわゆるサザエさん時空というやつで、商業的な要請の側面が大きいとはいえ、読者、視聴者もまた、しばしばそれを望んでいる。好きな作品にできるだけ長く続いてほしい、その世界にずっと浸っていたいと思うのはごく自然な感情だろう。なかでも「ほのぼの」と形容されるような作品は、そのような双方の願望がかなり高い確率で一致するように思う。時間の経過など生きる悲しみの最たるもので、優しいファンタジーを求める僕のような読者からすると、物語の進展は、つまり時間の経過はあまり好ましいものではない。日常を永遠のうちにとどめおいて欲しいのである。
 きらら系マンガと聞くと、美少女たちの幸福な日常コメディのイメージが浮かぶ。しかしそのような、現実に疲弊したオタクたちを癒す優しいファンタジーの印象とは裏腹に、きららの作品はサザエさん時空を採用しないことになっているらしい。小耳に挟んだ程度の情報だからそれが本当のことかどうかはわからないのだけれど、確かに『けいおん!』はじめ多くの作品において、進級と卒業は作品の節目になっているようだ(僕はきらら系作品をそこまでたくさん見たことはないので自信はない)。ゆゆ式もまたきらら系マンガの典型で、海や雪といった季節のイベントを差し挟みながら日々の何ということもない対話を続けてゆく4コマ漫画である。ただしこの作品の場合、物語の結末を導くためであったり、あるいはスパイスのようなものとして進級や卒業が存在するというよりは、むしろ作品全体の主題として時の流れを扱っているように思う。「いずれ過去になる今」が、きらら的な記号性を守りつつしかし繊細に描かれている、そのことこそがゆゆ式ゆゆ式たらしめる。

 残りは今週末に書き加えたい。中途半端ではあるけれど、書いたところまでで一区切りして今日は寝る。どうしても今日アップしたかったんだ。

 

 

 やっぱ今週末どころか今月末もむりだったよ

5月末までにまとめたいなあ

トム・ウェッセルマン「浴槽コラージュ#2」に関して

 

 トム・ウェッセルマンの「浴槽コラージュ#2」は1960年代当時の若い女性の水浴を題材とした、半立体絵画ともいうべき作品である。縦122.0cm、横185.5cm、厚さ16.5cmの板の上で、油彩とコラージュの手法が組み合わされている(*1)。

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大量死の時代と英雄の空虚――山田風太郎に関して

以下、大学で出した小レポートを少し感想文に寄せたもの。笠井潔さんの本は本当に便利なので、現代文学について何か書かんといかん大学生は是非読もう。

 山田風太郎は1922年、兵庫に生まれた。彼の職業作家としての出発点は戦後にあるが、青年期を戦時に過ごした戦中世代であることは間違いなく、そのことは彼の作品にも大きな影響を与えている。しかし彼の戦争体験は必ずしも彼の作品を暗く沈鬱なものにしたわけではなかった。むしろ彼は現在まで続く娯楽作品の一類型を作り、広く人々に支持されたのである。彼の作品はまず第一に面白く、彼の小説について語る上で私はその点を最も重視したいのだが、ここではその面白さを下で支えた人間観、時代のリアリティを話題の中心としたい。

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批評と相対化の先――舞城王太郎『煙か土か食い物』感想

 『煙か土か食い物』は2001年に第19回メフィスト賞を受賞し、講談社より刊行された舞城王太郎のデビュー作である。メフィスト賞は持ち込み原稿の仕組みを賞の制度として整えたもので、この受賞作および受賞者は「メフィスト系」と呼ばれて新本格ミステリ後の新しいミステリを、ひいては新しい文学を模索する運動の中で存在感を放った。一般的に、同一の文学賞を受賞した作品たち作家たちが必ずしも要素や構造における共通性を持つわけではない。ただ、綾辻行人をはじめ新本格ミステリの作家を数多く世に出した講談社がアンチミステリを売り出したことには明確な意図があったと考えるべきであり、文学を語る際にその商品としての側面を無視することはできない以上、メフィスト賞を受賞した作品や作家をメフィスト系として一つに括り、その文脈の中で論じるのは合理的といえるだろう。『煙か土か食い物』もまた、他の受賞作との対比のなかで検討するべき作品だ。

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