「時はいつの日にも」

 

 今年の三月に大学を卒業し先月から会社勤めをしているのだが、大学生の時と違って朝が早いので、制服姿の高校生たちとすれ違うことも多くなった。彼ら彼女らを見るとその言動の端々から高校生だった当時が思い出される。体に充ち満ちた生気と、未だ何者でもなく何者にもなり得るだろうという明るい不安、今思えばあの時間の豊かさを支えているのはそういうものだった。たった四年前のことがそんな風に懐かしく思い起こされ、同時に仄かな嫉妬と羨望を覚えることもしばしばである。生気と前途とは未だ僕にも備わっていると信じているけれど、高校生のそれとサラリーマンのそれとでは質が異なるだろうし、だいたいサラリーマンと言うだけで、なんだかくたびれた感じが漂うではないか。

 しかし冷静に思い返してみると、僕自身の青春、というか高校生時代に楽しい思い出は少ない。女子には相手にされなかった。次から次へと吹き出てくる酷いニキビと血と膿に怯えていた。体育の授業があれば前日から憂鬱だった。勉強のできる人たちが多い高校で、成績でプライドを守ることも出来なかった。人の目を見て話せなかった。実際、客観的に見て「春」と呼ぶほどの高校生活ではなかっただろうし、自分でもまさかあの日々を懐かしく思い出す日が来るとは思っていなかった。別に諸々の問題が解決されたわけではない。時が経ったということなのだと思う。二十二の男にとって、四年は決して短くない。ありふれた青春がありふれた形で終わったのだろうと、今はなんとなく納得しかけている。何かとうまくいかなかったけれど、それでもあの時の自分は高校生で、汗をかきながら思春期をやっていたのだと思い至ったのは、本当にごく最近のことだ。

 荒井由実の『12月の雨』という作品に、こんな歌詞がある。「時はいつの日にも 親切な友達 過ぎてゆくきのうを 物語にかえる」。僕がここに思い出話の記事なんぞを書いているのも、歯を食いしばりながら過ごしていた高校時代からすれば考えられないことで、まさに物語れるようになった自分を、この頃は愛しいようにも、滑稽なようにも思って眺めている。記憶の輪郭が淡くゆるみ、角の取れた感情が、夕暮れに残った熱気や水道水に冷やされた手のひら、あるいは通学路でふと気付いた金木犀の匂い、そういった一瞬の印象の中へ溶けてゆく。時が経つのは悲しいけれど、確かに親切だ。

 当時の僕は、懐かしい匂いや手触りや、道行く高校生たちの歓声から、ふと思い起こされる物語の断片になりかけているようだ。そしてそれとちょうど同じように、今の、そしてこれからの僕が、いつか季節の記憶の中でばらばらになって、肯定されるようになって欲しいと思う。悩んだり力んだりしている自分を、ああ、そんなこともあったと笑っているいつかを想像しながら、最近社会人なるものをやっている。

芸術の境界――赤瀬川原平とマルセルデュシャン

 昔アメブロにも同じようなものを上げた気がするが、せっかくなのでここにも載せておく。芸術作品の話だ。

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昨日を懐かしむように、一瞬を慈しむように――三上小又『ゆゆ式』感想

 三上小又作、2009年より芳文社にて刊行。掲載誌はまんがタイムきららなど。
 いかに時間の流れを堰き止めるかが重要な作品は多い。いわゆるサザエさん時空というやつで、商業的な要請の側面が大きいとはいえ、読者、視聴者もまた、しばしばそれを望んでいる。好きな作品にできるだけ長く続いてほしい、その世界にずっと浸っていたいと思うのはごく自然な感情だろう。なかでも「ほのぼの」と形容されるような作品は、そのような双方の願望がかなり高い確率で一致するように思う。時間の経過など生きる悲しみの最たるもので、優しいファンタジーを求める僕のような読者からすると、物語の進展は、つまり時間の経過はあまり好ましいものではない。日常を永遠のうちにとどめおいて欲しいのである。
 きらら系マンガと聞くと、美少女たちの幸福な日常コメディのイメージが浮かぶ。しかしそのような、現実に疲弊したオタクたちを癒す優しいファンタジーの印象とは裏腹に、きららの作品はサザエさん時空を採用しないことになっているらしい。小耳に挟んだ程度の情報だからそれが本当のことかどうかはわからないのだけれど、確かに『けいおん!』はじめ多くの作品において、進級と卒業は作品の節目になっているようだ(僕はきらら系作品をそこまでたくさん見たことはないので自信はない)。ゆゆ式もまたきらら系マンガの典型で、海や雪といった季節のイベントを差し挟みながら日々の何ということもない対話を続けてゆく4コマ漫画である。ただしこの作品の場合、物語の結末を導くためであったり、あるいはスパイスのようなものとして進級や卒業が存在するというよりは、むしろ作品全体の主題として時の流れを扱っているように思う。「いずれ過去になる今」が、きらら的な記号性を守りつつしかし繊細に描かれている、そのことこそがゆゆ式ゆゆ式たらしめる。

 残りは今週末に書き加えたい。中途半端ではあるけれど、書いたところまでで一区切りして今日は寝る。どうしても今日アップしたかったんだ。

 

 

 やっぱ今週末どころか今月末もむりだったよ

5月末までにまとめたいなあ

トム・ウェッセルマン「浴槽コラージュ#2」に関して

 

 トム・ウェッセルマンの「浴槽コラージュ#2」は1960年代当時の若い女性の水浴を題材とした、半立体絵画ともいうべき作品である。縦122.0cm、横185.5cm、厚さ16.5cmの板の上で、油彩とコラージュの手法が組み合わされている(*1)。

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大量死の時代と英雄の空虚――山田風太郎に関して

以下、大学で出した小レポートを少し感想文に寄せたもの。笠井潔さんの本は本当に便利なので、現代文学について何か書かんといかん大学生は是非読もう。

 山田風太郎は1922年、兵庫に生まれた。彼の職業作家としての出発点は戦後にあるが、青年期を戦時に過ごした戦中世代であることは間違いなく、そのことは彼の作品にも大きな影響を与えている。しかし彼の戦争体験は必ずしも彼の作品を暗く沈鬱なものにしたわけではなかった。むしろ彼は現在まで続く娯楽作品の一類型を作り、広く人々に支持されたのである。彼の作品はまず第一に面白く、彼の小説について語る上で私はその点を最も重視したいのだが、ここではその面白さを下で支えた人間観、時代のリアリティを話題の中心としたい。

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批評と相対化の先――舞城王太郎『煙か土か食い物』感想

 『煙か土か食い物』は2001年に第19回メフィスト賞を受賞し、講談社より刊行された舞城王太郎のデビュー作である。メフィスト賞は持ち込み原稿の仕組みを賞の制度として整えたもので、この受賞作および受賞者は「メフィスト系」と呼ばれて新本格ミステリ後の新しいミステリを、ひいては新しい文学を模索する運動の中で存在感を放った。一般的に、同一の文学賞を受賞した作品たち作家たちが必ずしも要素や構造における共通性を持つわけではない。ただ、綾辻行人をはじめ新本格ミステリの作家を数多く世に出した講談社がアンチミステリを売り出したことには明確な意図があったと考えるべきであり、文学を語る際にその商品としての側面を無視することはできない以上、メフィスト賞を受賞した作品や作家をメフィスト系として一つに括り、その文脈の中で論じるのは合理的といえるだろう。『煙か土か食い物』もまた、他の受賞作との対比のなかで検討するべき作品だ。

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知らずにいること、盲目であること

 「成るべく苦痛の少い手軽な方法で盲目になろうと思い試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧い工合にずぶと二分程這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分った」。
 谷崎潤一郎による『春琴抄』の一節だ。『春琴抄』は、美しいが驕慢な盲目の三味線師春琴とその奉公人佐助の生涯を描いた物語で、特に佐助が春琴の家に仕え始めたころから、彼が自ら目を突き盲目となるまでの十年程度がその中心となる。ただしこの物語は『鵙屋春琴伝』なる書物を読んだ「私」による一人称小説である点が特徴的で、物語は「私」の語りと偽書の記述の間を幾度も往復しつつ、その核心を迂回し続ける。カギ括弧や句読点を用いずに様々な形の語りを経由し、最後には冒頭の有無をも言わせぬ明晰な描写に至る文章はまさに神業と言って良いのではないかと思う。盲目というテーマ、あるいは迂回する文体はドゥルーズの言うマゾヒズムの形態学的な特徴とも一致し、また迂回を経たクライマックスの明晰性は探偵小説(谷崎の場合は『犯罪小説集』だが)にも通ずるので、作家論を語る上でも重要な作品と言えるだろう。
 作家論と言えば、渡部直巳氏がこの小説について面白いことを書いていた。春琴たちが暮らしていた時代を計算し、場所と併せて考えると、彼らは大塩平八郎の乱のただ中にいたはずだというのである。大塩の乱は幕府を揺るがす反乱だっただけでなく大坂の問屋が大きな被害を受けた事件なのだが、春琴抄はその渦中に舞台を設定しながら事件について何も触れず美や悪やマゾヒズムやらを語り続ける訳で、ここから考えるに「自ら目を突く」とは、谷崎の芸術至上宣言、社会にたいする盲目の宣言なのではないか、と渡部氏は主張する。春琴抄が発表された1933年は日本が国際連盟を脱退した年でもあり、その時代性を考えても渡部氏の考えには説得力があると僕は考えている。
 それにしても「社会にたいする盲目宣言」とは、谷崎潤一郎谷崎潤一郎であればこそ肯定的に受け入れられるというか、彼が大作家でなければ叩かれそうな宣言である。近代文学は近代社会の形成と密接な関係があり、また多くの文芸批評が文章作品を努めて社会的意義と接続しようとしてきたこともあって、特に純文学と呼ばれる文章作品群が社会に我関せずを決め込むのは、昨今批判されがちだ。温又柔氏の小説に対する宮本輝氏の評が炎上したように、文学にはイデオロギーの問題や社会におけるアイデンティティの問題がどうしても付きまとうようである。僕自身はそのことに関して良いとも悪いとも思わないが、直接的に実存の悩みを告白することにどれだけの説得力が、浸透力があるのかは疑問に思っている。
 ともあれ、社会に対して盲目でいることは近代の到来以来、もしかしたらそれ以前から良しとはされていないのかもしれない。知ることと欲することとは資本主義の教義だから。しかし昨今のように複雑化した世の中と情報の洪水に直面すると、自分にとって知らなくてもよいことを通り過ぎること、見ないものを決めることが、幸せになるためには大切なのかもしれない。そのためには色々なことを知らなくてはならないではないか、と言われたら何も言い返せないけれど。